連載「人と仕事」目次

井谷伸次さんと和紙

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紙漉は禅に通じる

紙は紙である。前にも述べたが技術の習得は並大抵の努力ではなかろうという事は、仕上がった紙を見れば、触れば、誰しも推察できることであろう。
ただ作業は紙を漉く事である。単純作業だ。
ならば、工場の生産ラインと同じではないかという疑問もあろう、実際に何も知らずに端から見ていれば、そのように映るかもしれない。

ただ決定的に異なるのは、工場の生産ラインは人間のミスを最小限にすることを前提に設計されている。ボルト一本締めるのも、きつく締めてという指示があったとしても締め方は担当の人の体力や腕力で異なる。だから生産ラインでは、お相撲さんが締めても、非力なお嬢さんが締めても同じように締めることができるように力(締め付トルクという)がコントロールされている。

紙漉きをする井谷さん
紙漉きをする井谷さん

紙漉には、外から見れば同じ作業に見えても、その技量が問われる、指先から全身の神経が紙漉に向かって集中される。 手でしかできない、人間でなければできない仕事である。なにかの理由で手元が狂えば、流の中の紙とは異なる一枚になるだろう。 井谷さんは全体が紙漉になってしまっているから、そんなややこしい事は考えもせず、目をつむっても紙が漉けるのだろう。でも全身のセンサーが無意識のうちに機能していることにかわりはない。

ただひたすら紙を漉く。私には禅の修行のようにも見える。

板まえ

最近偶然にこんなことがあった。
何十枚かが重ねられた紙を一枚一枚めくっていく。ふと手が止まるところがある。「うん?」と思って、もう一度やってみる、やはり手が止まる。なにかが微妙に違う。それはなんだかわからない、はたして紙の厚さなのだろうか、ごく僅かなテクスチャーの差なのだろうか。繰り返すが、私は紙のプロではない。
たまたま近くにいた、紙のプロに聞いてみた。彼も「たしかに違う」と言っていたので、私の勘違いではなさそうだ。

厚さだとすれば百分の一ミリ単位の違いだろう。和紙の原料は植物繊維だから工業製品のように均一な原料というわけにはいかない。どんなに丁寧な仕事をしてもロットで僅かな差はやむを得ない。

何故か私はこの小さな発見がとても楽しかった。この程度の差はたとえ機械で作られたモノでも誤差のうちかもしれないが、全てが均一、均質化される世の中にあって、手仕事の神髄に触れたような気がする体験であった。

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株式会社古今研究所 代表取締役
稲生一平

アートディレクター、陶芸家
1942年生まれ。大手広告代理店に勤務後に独立。異色のプロデューサーとして活動。
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